HSP(敏感すぎる人)という言葉は、人々の生きづらさを巧みに表したことで共感をよび、広く知られつつある。だが、本来は心理的特性を表すこの考え方が独り歩きし、根拠に乏しい発信が多くを占めている現状がある。それだけでなく、心理的特性であるHSPを(障害や疾患のように)「治療」すると謳う医療、HSPに関する資格ビジネスやマルチ商法、さらにはカルト団体の参入まで、ブームの渦中にあるHSPは多くの問題を抱えている。
こうした事態を注視する気鋭の心理学者、飯村周平氏は「HSPがブームとして『消費』されている現状にメスを入れていく必要がある」と語る。本稿では飯村氏の新著『HSPブームの功罪を問う』の内容を中心に、ブームの実情やその「罪」の側面、子育てや教育への影響、メディアの責任、研究者として広く情報発信を続ける背景など、幅広くお話を伺った。【聞き手・構成 / 大竹裕章(岩波書店)】
心理学起源からかけ離れたHSP理解
――本書ではHSPを科学的理解/ポップ心理学上の理解の両面から取り上げていますが、ここでは改めて、「HSP」について基本的なことを教えてください。
HSPとはHighly Sensitive Person、つまり「とても敏感な人」の意味です。日本では「繊細さん」と呼ばれることも多いですが、繊細で生きづらさを抱えた人、社会の刺激に過度に影響を受けてしまう生きづらく大変な人、という意味のラベルで、世の中一般では使われています。
ですが、HSPのルーツである心理学では異なります。HSPが立脚するのは人間の「感覚処理感受性」「環境感受性」という心理的特性です。人は環境から影響を受ける存在なのですが、刺激に対する影響の受けやすさの違い――より正確に言うと、知覚や処理の個人差――があります。この「感受性」が相対的に高い人が「HSP」とされます。HSPの提唱者であるエレイン・アーロン氏によると「5人に1人がHSP」であり、日本でもそういった説明が流れてはいます。ただし、HSPかどうかを切り分ける基準が決まっているわけではないので、気を付けて向き合う必要があります。
この影響の受けやすさというのはニュートラルなもので、よい環境・よい刺激からはよい影響を、逆に悪い環境・悪い刺激からは悪い影響を受けやすい、ということになります。つまり「良くも悪くも影響を受けやすい」ということであり、感受性が高い(低い)からいい(悪い)ということではないのです。「繊細さん」と生きづらさはセットで語られることが多いのですが、そういう話ではないことをまずご理解ください。
不正確な情報の増殖とブーム
――日本でのHSPブームの実情、そして飯村先生が着目した背景についてお話しください。
私は学部4年の2014年、現在の専門である感覚処理感受性の研究をはじめたのですが、そのころHSPはまだほとんど知られていませんでした。HSPの提唱者であるエレイン・アーロン氏の著書The Highly Sensitive Person (1996)は翻訳されていましたが(邦題『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ』)、そこまで注目はされていませんでした。
それから数年間、少しずつ情報が増え始めていきます。当初は、「自分の研究するテーマが広がっている、感慨深いな」と横目で見ていました。違和感を覚え始めたのは、2018年ごろのことです。本書『HSPブームの功罪を問う』では、ブームの起点を2019年頃として論じていますが、その1~2年前からおかしなHSPの情報が急増していきます。アーロンのHSPの翻訳書をもとに、様々な人が独自の解釈や経験に基づいて付け足したり、薄めたりするような発信が増え、そうした本も増えていきました。
さらには、一部の医師もHSPブームに参入していきます。こうしたおかしな情報の広がりは、2019年頃には無視できないほどになっていました。
専門性の怪しい「HSP専門カウンセラー」
――HSPブームにはどういった問題があるのでしょうか。
大きな問題としては、自分をHSPというラベルで説明している方が搾取され、消費されている面があることです。
たとえば、SNSで「HSP」と検索すれば、「HSP専門カウンセラー」などとプロフィールで自認する方が多くいて、旺盛に情報発信をしています。ブームのきっかけの一つといえる著作『「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる「繊細さん」の本』の著者である武田友紀さんもその一人です。ですが、こうした方たちの発信の多くは学術的な根拠に基づくものではありません。率直に言って専門性の不確かな「HSP専門カウンセラー」と称する方がカウンセリングを行ったり、あるいはそうした専門カウンセラーを養成するという高額のセミナーが開かれたりしているのです。
HSPを「治療」すると謳うクリニック
また医療面でも、「HSP外来」といった専門外来がつくられ、「HSPを治療する」と謳う一部のクリニックが存在します。先程お話ししたように、HSPは心理学に基づく概念であって、発達障害や精神疾患のような診断のための概念ではありません。だから、「HSPだ」と診断したり、治療したりするというのはおかしな話なのです。
こうした一部のクリニックでは、訪れた人へ問診や検査を行った上でTMS治療(経頭蓋磁気治療)をすすめています。このTMS治療とは、一部の成人うつ病患者を主な対象に脳領域に磁気刺激を与えるものなのですが、治療効果が認められていないケースにも利用され、日本精神神経学会が注意喚起をしています。私もツイッターで「○○万を支払ってHSPの診断と治療を受けたのに、全然改善しない」という相談を受けることもあり、被害に遭った方は少なくないようです。
こうしたTMS治療、あるいはHSPの脳波診断は、一見有効そうに見えるかもしれませんが、根拠のあるものではありません。精神科医にとっては、気質としてのHSP(感覚処理感受性)は専門外の領域で、診断対象ではありません。こうしたHSPに参入するクリニックでは、学術的な専門性が高くない医師が、経験や精神医学的な知識をもとに語っているように私にはみえます。
こうした情報の正否は心理学の研究者からみたらすぐわかりますが、一般の方が見極めるのは難しいでしょう。私だって、自分の専門とまったく違う宇宙工学の話をされたら、その是非を判断するのは難しいです。発信側に「HSPについて本を出している人」「医師」といった情報や肩書があれば、受け手が信じてしまうのは仕方がないことでもあります。それよりむしろ、そういう人たちをHSPの識者として取り上げてしまうメディアの側の責任が大きいと思います。
マルチ商法・カルト団体の参入
さらなる問題として、HSPにはマルチ商法やカルト団体が参入していることも挙げられます。全国各地ではHSPの人々の交流会が行われており、コロナ禍前はそれが対面だったのですが、マルチ商法やカルト団体への勧誘・販売の場となったケースもあります。
――なぜHSPがターゲットになったのでしょうか。
ブーム下では、HSPは「生きづらさ」を示すラベルとして用いられており、そしてそれに共感を覚える人たちが多く集まり、自らもそう自認するようになっていきました。そうした「生きづらさ」を抱える人々は、マルチ商法やカルト団体の格好のターゲットで、そこに目をつけられたのではないでしょうか。
それともう一つ、HSPは生きづらさと同時に「繊細さは才能」という、自分の能力に気づくようなラベルとされていることも挙げられます。「障害」ではなく気質や性格という位置付けで、かつ「生きづらいあなたの才能に気づかせる」というメッセージの出し方は、信仰と親和性が高いのではないかと想像します。こうしたことから、カルト団体の勧誘の対象になりやすかったのではないかと思います。
医療や支援とのつながりを失う危険性
HSPを自認することで生じる影響についてもお話しておきます。
自分をHSPと自認する方をいくつかタイプ分けすると、その中にはHSPというラベルに傾倒しアイデンティティの中核にしている方もいます。それぞれの背景があるのだと思いますが、気になることは、生きづらさや繊細さを「特権性」として扱っている、つまり「HSPは他の人とは違う。本当は繊細な、素晴らしい能力をもつ存在なのだ」と主張している場合があることです。中には、HSPでない方を蔑むような考えや発信をしている人もいます。こうした問題は本書で掘り下げているのですが、区別というより差別的な側面があると言えます。
そしてもう一つ問題なのが、自分をHSPと自己理解することによって医療につながることができなくなっている人たちです。本当は医療的アプローチによって、発達障害や精神疾患への適切な支援や治療につながることができるかもしれないのです。ところがHSPという自認のラベルゆえに「これは障害や病気ではなく気質なんだ」という自己理解につながり、医療へアクセスできなくなってしまう。当人の自己理解の場合も問題ですが、お子さんの場合も深刻で「わが子は障害でなくHSC(子どものHSP)という気質だ、だから検査や支援は必要ない」となってしまうと、その子のニーズを見誤り、適切な支援につながらないという危険もあるのです。
発達障害や不安障害とどう違う?
――ところで、ASD(自閉症スペクトラム)などにも感覚過敏といった特性がありますよね。それらとHSPはどう違うのでしょうか?
発達障害になじみのある方や一定の知識のある方にとって、HSPは胡散臭く感じられることがあるようです。というのは、ASDなどの発達障害、あるいは不安障害などの精神疾患などにも感受性に関する特性があります。いずれも広い意味では感受性を扱っているので、似通って見えてしまう方もいるようです。そしてポップ心理学的なHSP理解では、これらの区分がなされないままです。ですから、情報を受け取る側も混乱したり、警戒したりするのも無理はありません。これが問題をややこしくしているのです。
ただ、どういった点に関する感受性を扱っているのか、何に対する「敏感さ」なのかは区別があります。少々専門的な話になりますが、感受性については心理学の分野でも捉え方が異なり、いろいろな仕方で概念化されています。HSPはだれもがもっている人の性格(パーソナリティ)特性という側面からアプローチしていますが、その他にも神経症傾向(ネガティブな感情の経験しやすさ)、不安感受性(不安に関する症状が悪い結果をもたらすという信念によって生じる身体感覚の恐怖)、行動抑制システム(人が罰や新しい刺激を受けた場合の行動の動機づけを気質として概念化)など、感受性を扱う概念化がさまざまに存在します。
こうした、「環境からの影響の受けやすさ」から感受性を扱う発達心理学に対して、発達障害における感覚過敏や感覚鈍麻は、「脳機能の偏りから生じる感覚特性」として、発達障害に特有の文脈で捉えられているように見えます。
こうした感受性に対する様々なアプローチについては本書でも言及していますが、より詳しくは『HSPの心理学』という本で説明しているので、そちらもご参照ください。
子育てへの影響
――HSP/HSCについては、子育て面での関心も高いようです。実際、HSCの子育てについては、固有のなにかがあるのでしょうか?
世の中では「HSCの子をどう育てるといいのか」という関心が高いようで、私もよく尋ねられます。ただ研究上、HSCに特化して有効な子育ての仕方というものは明らかになっていません。いえることとしては、「感受性の高い子は、子育てのスタイルから良くも悪くも影響を受けやすい」ことでしょうか。
その意味では、感受性の高い子への影響の与え方には注意が必要とはいえるでしょう。つまり、体罰をしない、無視をしない、子どもを理不尽に怒ったりしない、といったことです。感受性の高低にかかわらず、その子の特性にあわせて環境を整えるのが大事という、子育て一般では当たり前の話になりますが。
――良くも悪くも影響を受けやすい、つまり、それだけ子育てによる影響が大きい可能性があるということですね。
ただ私が強調しておきたいのは、こうした影響の有無を全て親の原因にするのは違うのではないか、ということです。親も好きで子どもに暴力を振るうわけではなく、多くの場合、精神的に追い詰められて手を上げたり、理不尽な対応をしたりしてしまうのです。
たとえば子どもの親の抑うつ傾向が強く、周囲からの助けが少ないと、子どもの変化を察したセンシティブな子育ては難しい場合があります。その意味で親の精神的な余裕は重要なのですが、「親は子どもにサポーティブに関わるべき」といっても、なかなかそうはいかないこともあるでしょう。
子育てには、保護者にどういったリソースがあるのか、経済的な状況はどうか、周囲からどういうサポートがあるのか……等、様々なことが関わってくるものです。HSCが影響を受けやすいからといって、その子育ての責任は全面的に親にある、と考えるべきではないのです。
学校教育に入り込むHSC
――各地の自治体では、不登校支援や生徒指導等の文脈でHSC/HSPが公的な文書に用いられており、本書でもそうした問題を指摘しています。
それらの文書でのHSCの使われ方をみると、「弱い子」にHSCラベルを貼っており、学術的な意味合いとはズレている印象を受けます。たとえば、「HSCは集団生活が苦手」、「学校が苦手」、「不登校になりやすい」、ゆえに対策が必要……という話になるのでしょう。
私が問題だと思うのは、教育現場の方たちがこういう図式へ無批判に飛びついている節があることです。子どもが不適応を起こす背景をアセスメントするのは大事で、気質もその要素の一つです。ですが、「この子が不登校なのはHSCだから」と、ラベルを貼って原因を帰属させることで、理解した気になっていないでしょうか。それはむしろ、アセスメントせずに視野を狭めていることにほかなりません。
そしてそもそも、これらの文章からは、HSCとはなんなのかがよくわかりません。定義不明瞭なラベルを使っているように思えます。
――先にご説明のあった、ポップ心理学的なエビデンスのないHSP(HSC)の考え方が教育現場にも浸透しつつあるということですね。
オブラートに包まずにいうと、そういうことになります。こうした理解に基づいて「この子はHSC」とラベルを貼ったり、先生がそう考えたりするのは問題です。HSCは学校で良くも悪くも影響を受けやすいということになりますから、むしろよい関わりがあれば、学校に適応しやすくもなります。決して弱い、学校になじめない子ではないのです。
メディアの責任
――本書では「HSPブームは様々なメディアの影響が作り上げた面が大きい」と論じており、私たち出版業界もその一つです。こうしたメディアの責任や問題点についての考えをお聞かせください。
出版社も様々で、しっかりと正確な情報の発信を考えてくれるところもあります。他方、少なくない数の出版社はそうした正確性よりも、多くの人が飛びつきたくなるものを求めているようです。私もいろいろとお声がけをいただくのですが、そうしたポップな内容の出版企画書をいただき、自分なりに研究に則ったものへと直した案をお返ししたことがあります。すると、ぱったり連絡が途絶えてしまう。しばらくすると同じテーマで、別の著者による本が出ていたこともありました(笑)。
そうしたポップな本は売れるのでしょう。出版社もビジネスですから、そうした流行りに乗る面があることはわかりますが、いかがなものかとも思います。
同じことは、テレビやラジオ、新聞といったマスメディアにもいえます。「主語が大きい」と言われるかもしれませんが、日本のマスメディアはサイエンス・コミュニケーションを担う企画や担当者が、あまり多くないのではないかと感じています。優れた番組や記事がある一方、ワイドショーなどでは「わかりやすさ」が過度に重視され、正確性がないがしろにされてしまう。これまでもマスメディアを通じて、疑似科学的な概念が広がることが繰り返されてきました。HSPもさらにそうなっていくのではないか、と懸念しています。
――適切なサイエンス・コミュニケーションのために、信頼できる専門家をどう見つけるのが望ましいのでしょうか。
学術的な発信に関していえば、だれに取材や執筆依頼をするかの対象を見定めることが重要です。対象として考える人がどの学会に所属しているか、どんな論文や著作を執筆しているか、把握しておくことは必要でしょう。
たとえば最近、ある新聞で脳波に関する特集がなされていたのですが、神経科学分野の専門家からみると疑問が多く、批判的な指摘が相次ぎました。この場合も、適切な専門家にたどりつけていないのだと思います。その記事を執筆した記者は、研究者のポータルサイトである「researchmap」や「J-STAGE」、あるいは論文検索サイトの「Google Scholar」でその方の業績を確認したうえで取材したのでしょうか。
こうした論文や先行研究の調べ方は、大学で卒業論文を書く際に指導され、身につけていくものです。記者が取材する専門家を選ぶときも、同じような調査は必要でしょう。メディアの方には、せめてそのラインはクリアしてほしいと思います。
なぜHSPの情報発信を行うのか
――話は変わりますが、先生ご自身のご専門は「思春期・青年期を対象とした環境感受性理論の発達心理学的研究」とあります。研究領域としては、HSPの専門家ということになるのでしょうか?
必ずしもHSPをピンポイントで研究しているというわけではありません。さきほども感受性ということをご説明しましたが、この「感受性の個人差が発達の中で心理社会的にどう機能するのか」を中心に研究しています。
執筆する論文のタイトルに「HSP」と入ることは多いのですが、「あなたはHSPの研究者か」と尋ねられると――実際、みんなそう言ってくるのですが(笑)――わたし自身は、もう少し研究領域としては広いと思っています。
――先程、HSPブームの当初はその広がりを横目で見ていた、とおっしゃっていましたが、現在は研究に基づくHSP情報を共有するサイト「Japan Sensitivity Research」を運営するなど、HSPに関する学術的な発信を幅広く続けています。転機はどこにあったのでしょうか?
正直にいうと、はじめは見ないふりをしようと思っていました(笑)。
というのは、「自己肯定感」「アドラー心理学」「アダルトチルドレン」など、学術的な裏付けのないポップ心理学の言葉はこれまでも広がっています。ですから、いまさら自分がなにか言うことはないだろう、と考えていたのです。
ところが、次第に「HSPの人は魂のレベルが高い」など、怪しい情報が目につくようになってきます。また「電話が苦手だとHSP」「コーヒーが飲めないとHSP」「人付き合いが苦手だとHSP」など、いわゆる「あるある」ネタがSNSで飛び交うようになっていきます。こうした不正確な情報でないものに人々が惑わされはじめ、それに伴い、「HSP専門カウンセラー」を称する方や、HSPを診断・治療すると謳うクリニックが出てきます。
あるとき、「HSPは漢方で良くなる」という言説を目にし、それを批判したところ、大きな反論(というより非難)が飛んできました。このころに、私はブームの問題が一線を超えたと感じたのです。社会的な実害が目に余るほど出てきた、と思いました。
自分の大切にしている研究領域が社会に悪い影響を与えたことが、汚されているようで悲しく感じましたし、「もっと適切な研究や考えがあることを知ってもらいたい」とも思いました。それで、見て見ぬふりができなくなったのです。
届き続ける非難や攻撃
――こうした発信には頭が下がりますし、意義も大きいと感じる一方、ご自身にかかるストレスも大きいように感じます。
この3-4年、SNSをはじめ発信を行っているのですが、正直にいって心理的な負担は大きいですね。耳を傾けてくださる方も増えてきていますが、同時に攻撃も増えています。学術的な発信に対して、自らHSP当事者だという方から「自分の考えるHSPではない」と攻撃的なメッセージを受けることもたびたびです。当初は発信のしかたがあまり良くなかった面もあるのですが、現在に至ってもその状況は続いています。SNSを通じて情報を伝えられるという実感はあるので、なかなか難しいところではありますが。
――先生のツイッターアカウントを拝見していると、そうした苦労やご負担が確かに伺えます……。
外から見えるところだけではないんですよね。ある大学に乞われて講演を行ったのですが、それに対して誹謗中傷にあたるような匿名の手紙が届いたこともあります。
あまり長く続けるつもりはない?
――飯村先生は筆頭著者の査読論文を毎年複数本掲載し、とても順調に業績を積み重ねていらっしゃるように思います。そうした中、負担や精神的ダメージも大きいであろう発信を続けている理由は、どういったところにあるのでしょうか。
肩透かしになるかもしれませんが、こうした発信をあまり長く続けていくつもりはないんです(笑)。今回こうした本も刊行しましたし、2023年度には環境感受性に関する学術書を共著で刊行する予定です。それが済めば、一般書から学術書、またウェブサイトも作り、研究者としてやれることは一通りやったことになると思います。
先程申し上げたように、自分の研究分野が汚されてしまっているように感じたところから、学術的情報に基づく発信を続けてきました。そのうえで、歪んだHSP概念を修正していければ、と思って取り組み続けてはいますが、より適切な議論ができるようになったかどうか……。手応えはゼロではないのですが、根本的に変わったとまでは言えないな、とも思ってしまいます。先に行った通り、心理的にも負担が大きいですしね。
チーム・機関で研究情報の発信を
――研究者としてのHSPに関する情報発信となると、お一人で孤軍奮闘しているようにも見えてしまいます。
全く一人だけということはないのですが、どうしても攻撃が直接自分に向いてくる難しさや限界を感じてしまいます。チームや学術機関として発信ができたらよかったのですが。
研究者サイドでは、そもそもHSPを扱わないようにしている方が多いでしょう。率直に言ってHSPの話題は触れば触るほど荒れますし、繰り返しになりますが問題になっている通俗的なHSPは学術的には根拠のない話ですから。それに、いざ研究者として発信をしようとなると、感受性に関する先行研究を読みこむ必要があり、時間的コストも大きい。
発信を始めた当時は、一緒に取り組んでくれる先生たちもいましたが、徐々に「触らぬ神に祟りなし」となってきているような気がします。研究者が発信してもメリットはあまりないですしね。わたし自身も、本当は研究に集中したいのが本音です。
そうした意味では、当初から一緒に発信してくれる仲間がほしいと思っています。HSPにかぎらず、心理学には学術的な根拠や、再現性に疑念のあるタームが多く一般に広がることがあります。たとえば、物事や相手に何度も接触することで印象が良くなるという「単純接触効果」、相手に期待することでパフォーマンスが上がるという「ピグマリオン効果」などは、現在は再現性が疑問視されています。そうしたことに、現在の学術的な根拠に基づいて研究者が情報発信することは意義が大きいですし、それをチームなり、あるいは学術機関としてできるといいのではないかと思っています。
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