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Sunday, May 1, 2022

沖縄返還に奔走した国際政治学者の重い宿題 - 読売新聞オンライン

 沖縄の音楽グループ、ネーネーズの30年以上前のデビュー・アルバムに収録された『テーゲー』は、「沖縄人の生活観をうたった」と歌詞の解説にある。

 「テーゲー」(思い詰めず気楽に)「 んくるちゃあがな」(何とかなるさ)と明るく歌う曲が、5月15日に日本返還50年を迎える沖縄の現状を思うと、複雑な色彩を帯びてくる。

 沖縄返還で合意した1969年の日米首脳会談に向け、当時の佐藤栄作首相の特命でヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官と秘密交渉を重ねた若き国際政治学者、若泉敬・京都産業大学教授は、テーゲーには生きられなかった。

 佐藤政権の方針に反し、世論の反発も必至の「有事の米軍核の沖縄への再持ち込み」を認める確約を求められ、佐藤首相とリチャード・ニクソン大統領の極秘の覚書で担保する筋書きを描いた。その経緯は、京産大退職後の94年5月に公刊した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で明かした。

 早期返還、米軍基地縮小、核に対する世論の軟化の三つは同時に進まない。核再持ち込みのため嘉手納(沖縄市ほか)、辺野古(名護市)、那覇の米軍基地・施設の維持も求められた。覚書は苦渋の選択だったとはいえ、沖縄への罪悪感と主権者が真相を知らされない不合理を、永遠に胸の内にとどめておけなかった。

 94年6月に沖縄県知事らに宛てた「 歎願たんがん 状」には、「歴史に負う結果責任」をとって沖縄で「自裁」するとある。実際には、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還合意から間もない96年7月、福井県内の自宅で絶命した。66歳だった。

 覚書は人知れず佐藤邸で保管され、歴代政権を縛らなかったとして、外務省の有識者会議は2010年、密約ではないと判断した。ただ、「広義の密約」と認定した他の案件も含む調査過程でずさんな公文書管理を知り、政府に意識改革を強く求めもした。

 沖縄で県知事と主要米軍基地を抱える那覇、沖縄、宜野湾、名護の4市長が保守か革新の一色に染まる現象は、5人全員が反米軍基地の革新派だった1976年を最後に起きていない。4月24日の沖縄市長選では保守派が再選した。

 隣国の動きに、本土よりはるかに敏感な場所だ。バランス感覚が培われた理由は、政府が沖縄を返還に関する政策決定の蚊帳の外に置き、記録を残さなかったからではないはずだ。

 京産大の学生、職員として長く親交のあった「若泉先生」の志を伝えようと、京都で若者や起業家らを集めた「三縁の会」を主宰する吉村信二代表は「先生は何よりも、教育者だった。本の公刊後、国会に呼ばれて証言することを望んでいた」と振り返る。「実現していれば、自死は考えなかっただろう」とも思う。

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